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「日刊セイケイ斯ク戦ヘリ」プロローグその⑯

遅すぎた西岡武夫出馬表明

熊本震災で不自由な生活を余儀なくされている皆さまが普通の生活に戻れる日が一日も早く来ることを心から祈念いたしております。
また、困難な被災地 に駆けつけ、救出作業や復旧工事にあたる自衛官の皆さんには心から「ありがとう」と御礼申し上げます。さらに米軍によるオスプレイでの輸送支援には日本国 民の一人として感謝申し上げます。

また、米軍によるオスプレイでの輸送支援を政治的な意図をもって批判を繰り返す、共産党や沖縄左翼の売国奴、照屋寛徳には怒りが収まりません。沖縄県の恥です。日本の政治家という前に日本人を辞めてください。

(オスプレイ熊本派遣「災害の政治利用」社民・照屋氏が批判)
http://www.okinawatimes.co.jp/article.php?id=166049

回顧録「日刊セイケイ斯く戦ヘリ」プロローグを思いだすままに記憶と記録に基ずいてつらつらと書いています。

0426_08西岡公男氏から武夫氏が知事選出馬への意思を持つに至った経緯を聞いた時の私の正直な感想は「遅すぎた」。だった。
西岡武夫氏が長崎県知事選に出馬の意向を表明した日から、知事選が告示される2月5日まで一月を切っていた。投開票される2月22日まででも40日余りしかなかったからだ。

ハッキリ言って、無謀だという西岡党の人は多かった。
事実、西岡氏の出馬は無い、と判断し金子陣営の選対幹部に座っている西岡派の人は多かった。
中村春光会長もその一人だった。それは吉井農協の組合長として、また、牛右衛門グループの総帥として、経済人としての当然の決断だった。
私は9月の宮島会談後に春光会長が言った「「中山君、知事選に西岡さんが出る可能性はまだある。今月か来月頃、高田知事も松田先生と一緒に西岡さんの知 事選出馬の要請に東京まで行くそうだ。西岡出馬の可能性はまだまだある。しかし、10月末までに出馬表明せんばだめばい。それまでは迂闊に動かんがよ か」」。と言った言葉を思い出していた。
また、前年度には西岡武夫氏に知事選出馬を要請した高田勇知事も金子氏支持を表明していた。

公男氏は「父が昭和26年(1951)に知事選に出馬表明した時も告示まで一月もなかった」。事実を挙げて、勝機ありを強調したが、昭和26年頃の政治状況と今では余りにも違いすぎていた。

戦前に海軍政務次官を務めていた西岡竹次郎氏は、戦後昭和21年(1946)日本が太平洋戦争に降伏後、連合国軍最高司令官総司令部の指令により、公職に就くことを禁止されていた。
竹次郎氏は昭和25年(1950)に公職追放を解除されると自由党長崎支部長と長崎民友新聞社長に復帰し、翌年、昭和26年(1951)4月30日、自由党推薦で長崎県知事選挙に出馬してる。
竹次郎氏は長崎県知事選挙史上最高となる投票率85.61%の激戦を戦い、現職の杉山宗次郎(社会党・民主党推薦)を39万3,378票対30万6,007票で破って知事に就任していた。

新人で無所属から出馬を表明していた金子原二郎氏は五島町の中村倉庫(現・コナミスポーツクラブ長崎)に選挙事務所を構え、大通りに面した駐車場は車の 出入りも激しく、見るからに活気に溢れていた。また、この頃の自民党長崎県連は政調会長に谷川弥一氏、幹事長が林義博氏、議長が村山一正と自民党県連の黄 金期を迎えていた。谷川政調会長や林幹事長は県内の土建業者は勿論、全国大小ゼネコンに対しても長崎県発注の公共工事を餌に締め付けを強めていた。

平成15年(2003)1月15日、自民党長崎県連元幹事長浅田五郎氏(当時65歳)が逮捕された容疑こそ県工事を受注していたゼネコンに知事選目的で献金を要請していたなどとした公選法違反(特定人の寄付の勧誘、要求の禁止)そのものだった。
それは、この平成10年(1998)2月の知事選で公然化し、自民党長崎県連方式と呼ばれ悪しき慣例となっていった。