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「日刊セイケイ斯ク戦ヘリ」プロローグその⑮

回顧録「日刊セイケイ斯く戦ヘリ」第11大栄丸の船体引き揚げについて

0504_03平成21年(2009)当時、私(中山洋二)をどんな容疑でもいいから逮捕しろ、と、とんでもない天の声が出ていることは東京から来る情報で知っていた。やれるものな らやってみろ、というのが当時の私の心境だった。それで平成22年(2010)まさかの「怖かった事件」での逮捕である。権力って怖いですね、何でもでき る。おかげで合計で58日間の拘禁生活を経験させて頂いた。

保釈後、私を気の毒に思った東京の法曹界に近い関係者から後で聞かされた話だが、「中山さん、金子さんと近い岩橋義明という特捜の検事があんたを前々か ら狙っていたんだよ。前に会った時に金子さんや長崎県警には気をつけなさいと、って、言ってたでしょう。あんなことぐらいでふつうは逮捕なんてないよ、今 回はあんたの完全な油断だよ。」って諭された、と、同時に金力や権力って凄いなって改めて感心したもんである。岩橋というのは長崎県佐世保市出身の検事で、特捜の公判部長まで務めた次期警視庁総監候補とまで噂されていた特捜の岩橋義明元公判部長のことである。その岩橋公判部長が長崎地検の部下であった四窯検事に「中山を何でもいいから逮捕しろ」と厳命していたそうである。

そして私は私的で姑息な国策捜査によって1年数ヶ月後の平成22年12月1日、「怖かった」という変てこな容疑で長崎県警に逮捕されてしまう。

そして殴ったわけでも蹴ったわけでも茶碗を投げたわけでもないのに「暴力行為」という理解し難い容疑で長崎地検に送検されてしまうのである。
さすがに天罰が下ったのか岩橋氏は翌々年の平成24年9月28日(2012)酒に酔っ払って東急田園都市線の電車の運行を妨害した業務妨害の疑いで神奈 川県警に事情聴取されている。特捜の公判部長という立場を使い上手く隠蔽に成功していたが、一月が過ぎた10月4日、内部告発により事件が報道され岩橋氏 (当時・58歳)は失脚している。そして長崎県出身者初といわれた警視庁総監の夢は潰えたのである。
(佐世保市出身の最高検公判部長の岩橋義明氏(58)が妨害!)
http://n-seikei.jp/2012/10/58.html

岩橋氏については他にも面白いブログなどで色々と書かれているので参考のために下記にリンクしておく。
最高検察庁 岩橋義明検事を列車運行妨害の疑いで事情聴取
https://www.youtube.com/watch?v=hzSB8YD0uOs

岩橋義明の正体(横板に雨垂れ)
http://yokoita.blog58.fc2.com/blog-entry-226.html

第11大栄丸引き揚げ、届いた遺族の願い
http://n-seikei.jp/2009/08/11-13.html

第11大栄丸/生月島を訪れて
http://n-seikei.jp/2009/10/11-15.html

第11大栄丸の船体引き揚げのニュースは、新聞やテレビのニュースで報道された。多くのJC-NETの閲覧者の方もご存知だと思う。
遺族の方々の懸命な叫びと、18万名にも及ぶ善意の署名と石破農林水産大臣(当時)のご英断により、悲痛な祈りであった船体引き揚げが実現した。9月22日から本格的な引上げ作業が開始され、引き揚げられた船体から既に8名の方が家に帰った。

なお、JC-NETの引揚問題記事につき、閲覧者の皆様方のご協力は、遺族の方々の悲願達成に大きな力となりました。ありがとうございました。
私も平成21年(2009)9月30日、雨の中、生月島へ向かった。第11大栄丸の事故には自分なりに報道してきたことからも是非とも引き上げる瞬間を見 ておきたかった。生月島では、亡くなられた方々のご遺族の方々とお話もさせていただき、ご仏壇に手も合わさせていただいた。

あるご遺族の方の家は、第11大栄丸の基地であった館浦漁港を見下ろす大きな観音像に抱かれたような場所にあった。そこでは「自分のところは帰ってきてく れてよかったが、まだ残っている人が・・・。残っている人がおられるのでそれが心配で、心配で・・・」と何回もお話しされた。
遺族会で熱心に署名活動をされていた方の家も伺わせてもらった。ご遺族は「まだ家には帰ってきとらん。どうなるか分からん。帰ってきて欲しいが・・・・」と言葉少なであった。
第11大栄丸は、深田サルベージにより22日から引き揚げ作業が行われ、大型クレーン船により4月14日の沈没以来その姿を見せた。その後船は台船に引き 揚げられ捜索が開始された。沖合いから平戸の波穏やかな川内湾内(有名なホテル蘭風があるところ)に曳航されての作業であった。その結果29日までに11 名の遺体を収容。しかし残る1名は不明のまま、30日その捜索は打ち切られた。

これまでに9名の遺体が確認されたものの、2名は確認できずDNA鑑定に回されている。家にまだ戻すことができない3名の遺族の方々の心労ははかるべくもなく、しかも1名の方の遺体は永遠に自宅に帰すことができない状況である。
以前JC-NETで掲載した兄を亡くされた妹さんのスピーチ文をレクイエムとして掲載しているので回顧録でも紹介しときます。
「もう会えないけれど、ずっと見守って」
私は今まで命のことについて考えたことがありませんでした。この14年間を何も考えずに生きてきたので、友達や周りの人に傷つけることをしてきたと思います。けれども、そんな私が最近、命のことについて考えるようになりました。

それは、4月14日のできごとでした。その日の朝、私は熱が少しあり、学校を休もうかと考えていました。すると兄が「このくらい大丈夫さ。学校行けるっ てー」と、いつもと違う優しさで私に言うのです。兄は私の6つ上。年はそんなに離れていませんが、兄ということもあり私には優しくもあり怖い兄でもありま した。そんな兄との会話はこれで終わりました。

その日は、兄の乗る大栄丸漁船団の出船の日でした。風の強い日でしたが、変更はなく出航するようでした。私も兄の言葉もあり、普段通りに学校へ行きまし た。けれど放課後になり帰ろうとすると、突然担任の先生が車で送ってくださるというのです。そして先生が思いきったように言われた言葉は「兄ちゃんの乗っ とる船が、事故にあったって」というひと言でした。不安に思いながら家へ入ると親せきの人がたくさん来ていて、私にも大変なことが起こったとわかりまし た。

「なんかあったと?」という私の質問に答えたおばさんの言葉は、「兄ちゃんの船の沈没したらしか」というものでした。それを聞いた瞬間、私は信じられない気持ちでいっぱいでした。

「ヒロ兄(にい)はどこにおると? 船の中におると?」と私が尋ねると、おばさんは「まだ詳しかことはわからんけど、船の中におるごたる」というのです。

私はその言葉を聞いたとたん、涙がどんどんこぼれ落ち、話すこともできませんでした。

そして「なんで? なんでヒロ兄の乗った船が?」という思いでいっぱいでした。けれども一方で、ヒロ兄が死ぬはずはない、きっとどこかで助かっている、という思いも強くありました。

その日から、テレビでも新聞でも事故のことばかり報じられていました。そのどれを見ても兄の姿が浮かんできて涙が出るのです。兄の船が沈んだ辺りまで行ったこともありました。

私はそこで兄に「早く帰っておいで」と心の中で何度も呼び掛けました。

事故から2ヶ月が過ぎた今、私はいまだに事故が起きたことを信じられずにいます。兄はまだ20歳。つい何日か前まで一緒にご飯を食べたりテレビを見たり して過ごしていたのに、いなくなったなんて信じられません。ただいつも通り仕事に行っているだけで、あと少ししたら帰ってくるとしか思えないのです。

でも日がたつにつれ、これが現実だと思うようになってきました。そして、兄に言いたいことが次々にわいてくるのです。

「ヒロ兄、桃子はこれからいろんなことにあきらめないで頑張るからね。もう会えないけれど、これから先もずっと桃子の兄ちゃんとして見守っていてください。妹として何もできなくて、そして苦しいときに助けてあげられんでごめんね」

こんなことを考えていると、命がなくなるというのはこんなことなのだと実感します。それは大切な人に、どんなに強く願っても二度と会えなくなってしまう ということです。このことがあってから私は、あらためて身近にいる家族や友達のことを大切にしなくてはいけないと思うようになりました。「命」とはたった 漢字一文字だけど、とても深い意味があることに、兄が気づかせてくれたのだと思います。

今の私にできること。それは、1日1日が自分にとって充実した日々になるよう、今を大事にすることだと思います。そして、1つしかない命を大事に、兄の分まで精いっぱい生きていきたいです。

以上、海底に眠るヒロ兄(にい)こと平松大嗣さん(20)への思いを語った妹の桃子さん(生月中3年)のスピーチ文。