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「日刊セイケイ斯ク戦ヘリ」プロローグその⑭

熊本震災でお亡くなりになりました方には心よりお悔やみ申し上げます。また、被災者の皆さまには心からお見舞い申し上げます。また、困難な被災地 に駆けつけ、救出作業や復旧工事にあたる自衛官の皆さんには心から「ありがとう」と御礼申し上げます。さらに米軍によるオスプレイでの輸送支援には日本国 民の一人として感謝申し上げます。

そして米軍によるオスプレイでの輸送支援を政治的な意図をもって批判を繰り返す、共産党や沖縄左翼の売国奴、照屋寛徳には怒りが収まりません。沖縄県の恥です。日本の政治家という前に日本人を辞めてください。

(オスプレイ熊本派遣「災害の政治利用」社民・照屋氏が批判)
http://www.okinawatimes.co.jp/article.php?id=166049

0502_02西岡公男さんが言った蛭子丸とは平成5年(1993)2月21日、五島列島沖の東シナ海で操業中に転覆した金子漁業(現在の東洋漁業(金子岩久社長)長崎市)所属の巻き網漁船、第七蛭子丸のことである。

事故原因は漁具の積み過ぎによる復元力の低下と、漁網の固定方法が不適切だったことから、悪天候を受けて漁網が右舷側に滑り、傾斜が戻らなくなって転覆したみられていた。

基本的には韓国のセウォル号と同じ原理だったわけだ。
乗組員20人のうち19人が行方不明になり、長崎県内を揺るがした悲惨な大事故だった。
会社側は、海底で漁網が船体にからみついているために引き揚げは技術的に困難であるという結論を出していた。

五島沖の東シナ海で沈没した第七蛭子丸は、19人の遺体を抱いたまま120mの海底で今も放置されたままです。「天下御免の素浪人(同じ会社が二度目の海難事故)より参照」

当時、私は海底に眠る19人の遺体をサルベージ船を使ってでも一刻も早く引き上げて家族が待つ生月島に帰してやるべきだと環境タイムスで主張していた。そんな理由もあって金子前知事や金子一族、その仲間達からは蛇蝎のごとく嫌われていた。と、自負している。

第七蛭子丸の事故から15年が経った平成21年(2009)4月14日、生月町舘浦漁港を出港した第11大栄丸が平戸島沖の東シナ海で低気圧の大しけ中、転覆沈没するという事故が再び起きた。
水深100メートルに沈む大栄丸の画像がテレビに映し出される。私は15年前の第七蛭子丸を思い出した。

当初、船主の大栄水産(同市生月町)は引き揚げについてサルベージ会社が調査を進めたが、技術的な問題や多額の経費の負担が困難などの理由から同年5月 1日に引き上げを早々と断念。翌々日の5月3日には第11大栄丸事故現地合同対策本部(大栄水産、舘浦漁協、長崎県、平戸市)も解散するという水際だった 手際よさといえた。

0502_01私の予感は的中した。15年前と同じ第七蛭子丸の悲劇が生月島で繰り返されようとしていた。
私は血が逆流しそうなほどの嫌悪感と強い怒りを覚えた。しかも今の長崎県知事こそ蛭子丸を引き上げることをしなかった金子水産の親族、金子原二郎氏である。

あとで詳細に書いていくが結論から言って、第11大栄丸は世論(18万人の署名)と遺族の悲痛な祈りが届き、事故から5カ月後の平成21年(2009)9月22日引き揚げ作業が開始された。政権交代の22日後のことである。

誤解がないように記しておくが引き上げの英断を下したのは自民党麻生政権時の石破農林水産大臣だった。

私が平成10年(1998)に行われた知事選で既に勝敗は決した。と言われながらも西岡武夫氏を応援することに決めたのは、私の父や母が西岡党だったという単純な理由からだけではない。長崎県で第七蛭子丸の悲劇を二度と起こしてはならないと心の底から思ったからである。

私は西岡公男氏の「兄が知事になったら必ず第七蛭子丸を引き上げる」。という言葉を信じ、西岡武夫氏の応援を約束した。

その後、環境タイムスはインターネット長崎奉行・日刊セイケイに生まれ変わり、さらにその系譜はJCーNETへと繋がれていく。「日刊セイケイ・長崎浪人・中山小六(洋二)」