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「日刊セイケイ斯ク戦ヘリ」プロローグその⑨

2016年、4月15日以降に発生した、熊本県を震源とする地震により亡くなられた方々に謹んでお悔やみ申し上げますとともに、被災された多くの 皆さまに心よりお見舞い申し上げます。また、某党や胡散臭い団体・個人の募金や義援金の呼びかけには十分に気を付けてください。

回顧録「日刊セイケイ斯ク戦ヘリ」の日刊セイケイ誕生までの長~いプロローグを思い出すままに書いています。その⑨
チャレンジの会(林派)

北村誠吾

北村誠吾

長崎県議会自民党会派で林義博県議が率いるチャレンジの会(林派)には同じ佐世保市選出の朝長則男氏(現在・佐世保市長)も参加していた、長崎県議会自民党会派最大勢力であった。

他には生月町選出の大石保氏(引退)東彼杵郡選出の田口一信氏(現在・川棚町町議)西彼杵郡選出の池原泉氏(引退)野本三男氏(長崎市)南条三四郎(諫 早市・死亡)がいた。あの長崎市長・伊藤一長さんも県議時代には林幹事長とは肝胆相照らす仲間の一人としてチャレンジの会に参加していた。平成7年(1995年)4月に行われた長崎市長選挙にチャレンジした伊藤一長さんが現職の本島等氏を見事に破って、長崎市長に当選を果たした裏には林幹事長の影響力(高田知事の支援取り付け)があったことも事実であろう。これに谷川弥一 氏が率いていた谷川グループ(末吉光徳氏・三好徳明氏・八江利春氏・馬込彰氏・浜崎祐一郎氏)と呼ばれていた谷川派と林派が連合して自民党の主流派を構成 していた。

 また、反主流派の中心的人物に林義博議長の次の議長を想定していた谷川弥一氏を退けて、平成13年7月11日、一足早く議長に就任した加藤寛治氏が主流派を激しくけん制していたのも、この頃のことである。
加藤氏は現在は衆議院議員で農林水産省政務官を務めているが、国政の方では一歩半くらい谷川氏の後塵を拝している。加藤氏のグループには、他に対馬の頑固親爺・古藤恒彦氏(死亡)、西海の暴れん坊・林田 悧氏、東長崎の暴れん坊・西川忠彦氏(死亡)、佐世保の狭客・石本順之助(死亡)私の地元の先輩・中山功(長崎市)長崎の伊達男・佐藤亨(長崎市)五島の暴れ牛・西津覚(さとる・五島市・死亡)等がいた。それなりの強兵がメンバーに名を連ねていたのである。1995年(平成7年)の市長選挙に同じように県議からチャレンジし、伊藤一長氏に敗れ、惜しくもチャレンジに失敗した浅田五郎氏が同じ日大の後輩である加藤氏のグループの一員として長崎県議会に復帰するのは翌々年の1999(平成11年4月11日)のことである。

林幹事長のチャレンジの会に参加していた朝長則男県議は平成7年4月7日に執行された長崎県議会議員一般選挙の佐世保市選挙区(定数8)に於いて 20,662票と圧倒的強さをみせ、2位の林義博氏に5,545票の差をつけてトップ当選を果たしていた。長崎県議会議員全員の中でのトップ当選でもあっ た。

0419_08 長崎市のトップ当選が公明党の松尾忠幸氏の14,382票、2位が14,377票の谷川弥一氏でトップとの差がたった5票という僅差であった。その中には私と私の嫁の2票も含まれていた。私はこの選挙を最後に谷川氏に投票することは2度となかった。

 この年の県議選挙の上位を見てみると一位の朝長則男氏(現在佐世保市長)の20,662票、2位が西彼杵群選出の三好徳明氏(元長崎県議会議長)で173,000票、3位が南高来郡選出の奥村慎太郎氏(前・雲仙市市長・死亡)の17,172票が上位ベスト3となっている。奥村慎太郎氏があのような形で亡くなられたことが残念でならない。国政に行かせてやりたかった政治家の一人であった。

因みに現在、長崎県議会議長を務めている田中愛国氏は11,414票と石本順之助氏に次いで4位での当選であり、トップ当選の朝長則男氏との差は9248票と大きく離れていた。

春光会長が金子氏の知事選出馬による自民党の後任候補として一番に朝長氏の名前を上げた最大の理由が県議選で2万票以上の票を獲得する県議は長崎県下全域を見渡しても朝長則男氏の他には誰もいなかったからである。この時の北松郡選挙区は北村誠吾・松田正民・大石保の3県議が出馬したが、他に出馬する候補者が誰もいなかったために無投票選挙だった。

この中村・宮島会談の約3年後の平成12年6月25日に執行された衆議院選挙長崎第4選挙区で2期目の現職で自民党公認候補の宮島大典氏に県議を辞職して背水の 陣で出馬した北村誠吾氏が宮島氏に2700票の差をつけて勝利するなど神様でさえ想像すらできなかっただろう。まして、この時点では北村誠吾氏本人ですら夢にも思わなかった奇跡のような出来事だった。

「日刊セイケイ斯ク戦ヘリ」プロローグその⑧

回顧録「日刊セイケイ斯ク戦ヘリ」中村春光大兄 殿

2016年、4月15日以降に発生した、熊本県を震源とする地震により亡くなられた方々に謹んでお悔やみ申し上げますとともに、被災された多くの皆さまに心よりお見舞い申し上げます。

「日刊セイケイ斯ク戦ヘリ」の長~いプロローグを思い出すままにつらつらと書いています。その⑧

朝長則男佐世保市長

朝長則男佐世保市長

2012年6月27日のJCーNETのキンシロー投稿に下記のような記事を見つけた。回顧録の参考になれば幸いです。

「町おこしは〝牛〟(中村春光)」(http://n-seikei.jp/2012/06/post-9551.html

「イモとカボチャとダイコンより」(http://www.n-seikei.jp/log/2004/05/0508a.html

また、私が平成15年10月24日、石橋昭事件で逮捕され、翌年平成16年2月6日に執行猶予付きの判決が下り、心機一転、再起に向けて闘志をふるい起そ うともがいてた、ちょうどその頃、東長崎にある牛右衛門で食事を済ませ、レジで会計をしようとした、その時、レジのカウンターの上に置かれていた「イモと カボチャとダイコン(著者・中村春光)」という本が偶然目に止まった。長らくご無沙汰していた春光会長と出会った頃を懐かしく思い出し、早々に本を購入、 一気に読んでしまった。春光会長らしい朴訥とした語り口と素朴な挿話の面白しろさと嬉しさのあまり春光会長に無断で日刊セイケイに掲載してしまった。

春光会長には、この場をお借りして無断で掲載した非礼を衷心より御詫び致します。また、今回、春光会長に何の挨拶もしないまま、こんな勝手な回顧録を書 いてることも併せて御詫び申し上げます。近々に春光会長が好きな胡蝶蘭の花とカステラを持参し、江迎まで上梓の御挨拶に伺いますので、もうしばらく非礼を 御許しくださいませ。「中村春光大兄 殿、 中山(小六)洋二 拝」

私は宮島組合長の話を聞きながら、未だ会ったことも見たこともない林義博幹事長という県議に対し、強い嫌悪感と敵意を感じながら、同じように会ったこともない金子原二郎氏にも嫌悪感と敵意が湧きあがってきたのを今でもハッキリと思い出す。

それは私が西岡武夫のファンということもあったろうし、父や母の時代からの西岡党という自負心からきたものもあっただろう。それと長崎市出身の政治家が 県北、生月町出身の政治家に負けるという現実に対しての狭義の意味での地元、偏狭的地元愛から来たものだったかもしれない。

春光会長は「しかし林さんはチャレンジの会(林派)の会長でもあるし、朝長さんもチャレンジの会じゃなかったかね。簡単には大典さんの後任候補を容認す るわけにはいかんじゃろう。だいいち、朝長さんも誠吾ちゃんもそれじゃぁ~納得せんじゃろう。」と再び宮島大典氏の後任候補擁立は無理があるんじゃないの かと、ゆっくりとした穏やかな口調ながら毅然と言い放った。

チャレンジの会とは長崎県議会自民党会派内で気が会う、仲良い県議が集まるグループ集団の一つで、国会の派閥に似ているが、それよりもゆるやかな集まり で、国会の派閥が親分、子分に近い強固な集団なのに対して、県議会の派閥は当選回数の多い人と少ない人の先輩、後輩の上下関係はあるが、どちらかというと 仲良し集団みたいなグループであった。チャレンジの会は林義博県議が会長に就き、林派とも呼ばれていた。当時、長崎県議会で最大勢力でもあった。

「日刊セイケイ斯ク戦ヘリ」プロローグその⑦

回顧録「日刊セイケイ斯ク戦ヘリ」西岡党、恐れずに足らず。

西岡党、恐れずに足らず。

林義博氏

林義博氏

私が生まれ育った長崎市には戦前の普通選挙運動に関わり衆議院議員を6期務め、戦後の昭和26年には長崎県知事に就任した西岡竹次郎翁、その妻で参議院議 員だった西岡ハルさん、長男で新自由クラブ幹事長、文部大臣、参議院議長等を歴任した西岡武夫氏、次男で長崎県議会議員だった西岡公男氏、また、竹次郎翁 の実弟、倉成庄八郎も衆院議員を務め、外務大臣を務めた倉成正は甥という華麗なる一族がいた。

硬骨漢で波乱万丈の生涯を生きた西岡竹次郎翁を多くの長崎県民が敬愛した。特に長崎市内では熱狂的な支持者を西岡党と呼んでいた。
私が育った地域も、私の父も母も例外ではなかった。父は西岡竹次郎翁のことを竹二郎先生と親しみと尊敬の念を込めて呼び、母は西岡ハルさんをハル先生と呼 んでいた。だからといって私の父も母も竹次郎先生やハル先生に個人的に何かを頼んだり、個人的に親しく交わるということはなかった。私の父や母にとって西 岡竹次郎夫婦という存在は相撲の双葉山、柔道の木村政彦と同じようにヒーローのような存在だった。私はそんな環境で育ったのである。

宮島組合長から、次期知事選に金子原二郎氏の出馬を告げられた時の中村春光会長の心境は複雑だった。
中村春光といえば松田九郎氏の後援会長として松田氏を陰で支え、政治家・松田九郎を世に出した功労者であった。その時に戦った相手こそ金子岩三氏あり、そ の後継者である金子原二郎氏だった。また、金子原二郎氏が知事選出馬の為に衆議院議員を辞職した後任候補に宮島組合長の子息、宮島大典氏が選ばれた場合、 宮島氏が戦う相手こそ松田九郎氏だったからである。しかも、その松田氏と盟友関係にあったのが西岡武夫氏だった。

金子原二郎氏の知事選出馬、金子氏の後任候補としての宮島大典氏の1区から4区への転出に難色を示し、一向に色よい返事をしない春光会長に業を煮やした宮島組合長は「実は金子氏の知事選出馬を一番熱心に働きかけているのは県連の林幹事長なんだ。」と打ち明けた。
更に宮島組合長は「去年(平成8年)、の衆議院選挙で大典は佐世保からの落下傘候補と呼ばれながらも1区で西岡さん相手に善戦した。しかも、たったあれ だけの短期間の選挙戦でだ、西岡さんの強固な地盤といわれていた長崎市内でも互角に戦った。そういう意味で去年の衆議院選挙は来年行われる知事選挙の票読 み、前哨戦のようなもんだった。よしんば来年(平成10年2月)の知事選に西岡氏が出馬したとしても、金子さんでも少々は長崎市内で負けても思ってるほど 差は開かない。県央も県北も金子さんが圧倒する。西岡党、恐れずに足らず。と林幹事長は自信をもって金子さんを説得しているそうだ。」と、知事選の勝敗は 既に金子さんで決まった。

と言わんばかりの宮島組合長の言い草に、春光会長は終始笑顔を見せることはなかった。

私は未だ会ったこともなかった林義博という 県議会議員に対して、嫌悪感と敵意がメラメラと湧き上がるのを感じていた。

「日刊セイケイ斯ク戦ヘリ」プロローグその⑥

西岡武夫氏、天下国家を語る。

1105_01-thumb-165xauto-3344西岡武夫私が二十歳の頃だった、選挙の時に先輩に連れられて行った長崎市公会堂で聴いた西岡武夫氏の演説が今でも忘れられない。私達はただ選挙のためにだけ動員さ れて会場の後ろの方でただ座って壇上で演説する名前も顔も知らない政治家達の面白くもない演説を退屈だったが聴いていた。私は会場のムンムンする人の熱気 のせいで軽い睡魔に襲われて一瞬だったが眠っていたような気がした。すると会場が急にざわめきたったと思ったら女性の司会者が西岡武夫先生の入場で~す。 と、叫ぶと壇上にテレビや新聞でしか見たことない本物の西岡武夫氏がさっそうと現れるとステージの前まで進み深々と頭を下げてお辞儀をすると、1階から2 階まで会場全体をゆっくりと見回した。

するとざわついていた会場が一瞬にしてしーんと静まり返った。まさに歌舞伎でいう千両役者である。西岡武夫は今まで 壇上に立って演説していた政治家達とはまるで違うオーラを放っていた。私を襲っていた睡魔は一瞬にして吹っ飛んだのをハッキリと記憶している。

それまで私 が知る政治家といえば田中角栄くらいなもんで、政治には全く縁も関心もない私だった。少年から青年時代の私は歴史や古代史には興味もあり、随分とそっち系 の本は読んでいたが、正直いって政治や現代史には全く興味がなかった。ただ一人、田中角栄という政治家だけは大好きだったが。その他の政治家にはあまり関 心がなかったような気がする。

西岡武夫のよく通る声はマイクさえ不要のように思えた。それくらい西岡武夫の声 には張りがあり、艶があった。西岡氏の前に講 演していた政治家が薄汚れたものに感じられるくらい天下国家を語る西岡武夫は魅力的で、かっこよかった。小気味よく語る西岡武夫はよく見れば小柄だった が、とても大きな男に見えた。それくらい西岡武夫の存在感は圧倒的だった。

それ以来、私は政治に興味を持つよう になり、いっぺんで西岡武夫のファンになった。西岡武夫40歳、私が23歳の時である。それから3年後の1976年 (昭和51年)、西岡氏は自民党を去り、河野洋平等と新自由クラブを結成し、新しい保守勢力を目指した。それに多くの若者が熱狂し、多くの国民が期待した のは事実であった。だが親中派で中道を目指す河野洋平と意見が対立。その後、一旦は自民党に復党するが、平成9年のこの頃は、再び自民党を一緒に割って出 た小沢一郎と新進党を結党し幹事長という要職に就いていた。お陰さまで私は今でも河野洋平という男が嫌いである。

「日刊セイケイ斯ク戦ヘリ」プロローグその⑤

林さんには2000万円渡すことで了解

 宮島組合長は「林幹事長からは既に内諾を得ている。県連の松谷会長とも東京でお会いし、地元(自民党長崎県連)が纏まるんであれば私は宮島さんで一向に構わない。と確約も取ってきた。」と春光会長に興奮ぎみに状況を説明した。

そんな宮島組合長に対して春光会長は「しかし、そいじゃあ県連が納得できんじゃろう。まして朝長さんとか北村さんは納得せんじゃろう。しかも林幹事長は 去年の大典さんの選挙では幹事長として長崎市内の土建業者ば動員して相当強引に選挙ば戦ったって聞いとる。今更、大典さんば4区に回すって言えんじゃろ う。そんなことしたら林さんの幹事長としての立場がなくなりゃあせんね。面子が立たんじゃろう。」 と自らを諭すようにゆっくりとした語り口ながら納得しかねるという春光会長の強い意思を私は感じていた。

すると、宮島組合長は私の方をチラっと見て「実は林さんには2000万円渡すことで話がついている。松谷さんには東京で既に500万円渡してきた。それと 政調会長の谷川さんにも長崎の結婚式で同席した時にだいたいの承諾は得てきた。」と、驚くべき事実を明らかにしたのだ。この時はじめて、春光会長がわざわざ私を長崎から呼び、こんな重要な会談に同席させた意味を悟ったのである。 春光会長は宮島組合長の毒饅頭を警戒し、それを喰いたくなかったのでわざと私を同席させたのである。つくづく中村春光という男の凄さを思い知ったものだった。

と、同時に私は自民党の国会議員の公認がこうした形で決まることに驚くというよりも、政治の世界の怖さを感じたものである。その時の私の心境は長崎県の政治の世界の裏面史をチラっとでも覗けたという満足感と感激で興奮したのを今でも憶えてる。

私は、そんなことは微塵も顔にはださず緊張した顔で春光会長の隣に座っていた。今、目の前で起こっているとんでもない会談の結末が気になるのと同時に、まだその頃は面識のなかった朝長県議と北村県議が気の毒に思えたことだけはハッキリと憶えている。

ここまで話が進むと後は知事選の話題へと話が移った。春光会長が「ところで金子さんはほんとに知事選に出るとね」と言うと、宮島組合長は「出る気は間違い なかごとあるが、本人は西岡さんの動きばとても気にしてるようだ。相手が西岡さんなら選挙戦も厳しくなろう。西岡さんが出るってなれば、出らんかもって言 う人もおるとよ。高田知事が東京で西岡さんに会うて知事選出馬の打診ばしてきたけど、西岡さんは今は新進党が大事な時期なので、幹事長として今の私は動け ない、と、高田知事の知事選出馬要請を断ったごとある。」と、宮島組合長は、子息、大典氏のためにもここは何が何でも金子氏に出馬して貰わんと大事(おお ごと)だという悲壮感がバリバリ感じられた。

春光会長が「しかし金子さんに知事が務まっとかね。」 というと宮島会長は「大丈夫、知事は誰がなってん県庁職員がしっかりしちょるけん、金子さんでも務まっとよ。」と言って笑った。それには春光会長も私も苦 笑いするしかなかった。私はこうして長崎県知事が決まっていくことに長崎県民として一抹の不安と、苛立ちを感じたのをハッキリと記憶している。

「日刊セイケイ斯ク戦ヘリ」プロローグその④

自民党の若きホープ

0410_03宮島金子さんが衆議院を辞職した後の後任に息子の大典(次男)を出馬させようと思ってる。
と、のっけから切り出してきた宮島組合長に対して春光会長は「そがん言うても、大典さんは去年、 長崎一区から出馬したばかりじゃろう。しかも、金子さんが知事選に出馬して、その後任ってなれば4区には朝長さんもおるわけだし、北村さんも出たかじゃろ う。」と言うと、次の宮島組合長の返答を待った。

春光会長がいう朝長さんとは佐世保市議2期、長崎県議4期務め現在は佐世保市長であり、2010年1月10日、佐世保市が開催した成人式で挨拶中、壇上 に上がって騒いだ新成人に対し「社会のルールを守ることを認識してほしい。社会は厳しいものですよ」と一喝した、あの朝長則男市長のことである。

当時47 歳と政治家として脂が乗りかかり国政への進出にも意欲的だった頃である。また、もう一人の北村さんとは現在衆議院議員(5期・岸田派・元防衛副大臣)の北 村誠吾氏のことである。北村氏も元農水大臣・白浜仁吉翁の秘書を長らく務めていたくらいだから当然、この頃はチャンスが来れば国政へとの熱い思いはあっ た。北村氏も49歳とまだまだ若かった。

宮島組合長の子息である宮島大典氏は当時34歳の若手のイケメン候補として将来を嘱望されていた政治家であった。

学歴も長崎の青雲中学・高校から一橋大 学社会学部卒業と人も羨むエリートでもある。大典氏は1991年(平成3年)に28歳で佐世保市から長崎県議会選挙に出馬し初当選、4年後の1995年 (平成7年)、第17回参議院議員選挙に自由民主党公認で長崎県選挙区から出馬したが、西岡武夫氏が幹事長を務めていた新進党公認の田浦直に敗れ、次点に 泣いていた。

さらに翌年1996(平成8年)初めての小選挙区制度で行われた衆議院選挙では長崎1区から出馬、あの西岡武夫氏に約13000票差にまで迫る大健闘を見せていた。

あの時、西岡氏は60歳、宮島氏はまだ33歳という若さだった。次の選挙ではさすがの西岡氏も危ないと囁かれた選挙でもあった。ちなみに私が43歳の時である。あの時の大典氏の選挙を仕切っていたのが同じ佐世保市選出の県会議員で長崎県連幹事長でもあった林義博幹事長だった。

今、思えばあの頃が自民党の 党営選挙としての最盛期だったような気がする。その時の選挙で佐世保市出身の大典氏は「長崎一区に骨を埋める」 と公言し、西岡氏の強固な地盤である長崎市内での選挙戦でも大典氏は大健闘していた。

大典氏の「長崎一区に骨を埋める」 という言葉に共鳴して宮島大典に投票した長崎っ子は多かったはずである。

また、大ちゃんスマイルと呼ばれた大典氏の若さと爽やかな笑顔は長崎一区の若い女 性票を鷲掴みにしたとも噂されていた。文字通り自民党の若きホープであった。ただ、私が率直に感じたのは1991年(平成3年)の県議選、1995年(平 成7年)の参議院選、1996(平成8年)の衆議院選、そしてまた今度1998(平成10年)の衆議院補欠選と宮島家はいったいどのくらい資金を使ったん だろうかという老婆心と、その原資はどこから来てるんだろうかとの疑念だった。

まさか3年後、あんな事件が起きるとは環境タイムスの主幹だった私でも想像だにしなかった。

「日刊セイケイ斯ク戦ヘリ」プロローグ③

日刊セイケイ斯ク戦ヘ0407_01リ」のプロローグを思い出すままにつらつらと書いてます。③

松田九郎中村春光会長と宮島滉(ひろし)氏の関係は宮島氏が佐世保農協の組合長、春光会長が吉井町農協の組合長というお互い農協の組合長という関係は勿論だが、春光会長は長崎県の農協団体の信用事業を一手に束ねる長崎県信連((長崎県信用農業協同組合連合会)の実力会長でもあり、一方の宮島組合長は長崎県農協中央会という農協の連帯を強めるという(長崎県農業協同組合中央会)の会長という、長崎県の農協団体系の両雄でもあった。しかも宮島氏は長崎県の農協団体を代 表して1983年(昭和58年)の第13回参議院選挙に出馬して当選している、やりての組合長として県下に名を馳せていた人物であった。

春光会長といえば自らは政治家にならない代わりに2015年2月9日に92歳で亡くなったヤジ将軍・松田九郎氏(元衆議員で自治政務次官・当選2回)の後援会会長として選挙には誰よりも精通し、中国の大人然とした風格を備えた人物だった。

私は、そんな大物二人の会談に同席させて頂いたことを今でも誇りに思っているし、今、 思うとあの時の宮島滉・中村春光会談は、その後の私の人生に大きなインパクトとなり、後の様々な場面で私の言動に少なからず影響を与えたように思う。

春光会長は部屋に入ると私を同席させることを宮島氏にウもスンも言わせないぞという迫力で強引に了解を取った。上品で見るからに仕立てのいい、明るい色のスーツに身を包んだ宮島氏は、ちょっと猫背の姿勢で座卓に座っていたが、宮島組合長は私を一瞥するとひきつるような笑顔で頷くしかなかった。私は今日のこの大物二人の会談が特別の物であることを察し、緊張したもんである。

私は宮島組合長に軽く会釈だけ済ますと、春光会長の隣に緊張したまま座った。宮島組合長は春光会長と私が座卓の席に座るとすぐに「来年(平成10年2月)の知事選にを衆議院を辞職して金子さん(原二郎)が出馬する意向を固めた。実は今日も事前運動で隣町の佐々町で国政報告会を兼ねた演説会を夕方から行うことになっている。そこで金子さんが衆議院を辞職した後の後任に息子の大典(次男)を出馬させようと思ってる。
中村会長には今回だけは松田先生が衆議院選挙に出馬しても、是非、うちの大典を応援して欲しい。」と、のっけから切り出してきたのである。

中村春光会長といえば国会のヤジ将軍と呼ばれた松田九郎氏の後援会会長を長年務めるなど県北地区では松田系の大物中の大物として知られていた、が、1990年(平成2年)2月18日、中選挙区最後の選挙で松田氏が36票差で落選してからは松田氏との関係は必ずしも、しっくりいってなかった。春光会長の口から直接、松田氏を批判する言葉は聞いたことはなかったが、宮島組合長からこのような申し出があること自体が春光会長と松田氏のこの時期の微妙な関係を如実に表わしていた。

「日刊セイケイ斯ク戦ヘリ」プロローグ②

「日刊セイケイ斯ク戦ヘリ」のプルローグを思い出すままにつらつらと書いてます。②

あとで聞いた話だが、その時のエンマキ商事横領事件の捜査を担当した長崎県警捜査2課に当時は長崎県議会議員で長崎県連自民党政調会長の谷川弥一氏(現衆 議院議員)の従兄弟である谷川富士男氏(親和銀行顧問)がいたというのは下衆の勘ぐりだろうか、神様の悪戯だろうか。神のみぞ知るである。その翌月の3月2日には4期16年、長崎県知事として君臨していた高田勇知事の側近で実力県議と噂されていた大村市選出の小林克敏県議が逮捕されている。この事件にも前出の谷川刑事が関与していたとの妙な噂が流布していた。ここで小林氏の逮捕について論評するのは差し控えたい。ヘタに私が論評するより現在も大村市選出の長崎県議会議員として大村市と県政の重要なパイプ役となり活躍している事実が何よりも正しい論評だと信じているからである。

小林氏が入獄した大分刑務所にはエンマキ事件で有罪の判決を受けていた入江氏が偶然にも同じ大分刑務所に入獄していたのも神様の悪戯のようである。小林氏は出所前に入江氏と同房だった宮崎県出身のA氏と話す機会がありA氏は小林氏が長崎県出身者だと分かると、エンマキ事件の入江氏と同房だったことを告げ、 入江氏が寝物語に「自分は無実だが多額の報酬と引き換えに偉い人の身代わりに罪を背負ってきた、出所したら住む家と多額の報酬を貰える。」という自慢話をして いたと語っていたそうだ。真実は神のみぞ知る。

また、県知事選5選出馬を目指していた高田勇知事が住む長崎市内立山の知事公舎に長崎新聞社の小川完二氏(現大村ボートの競艇大好き局長さん)が数人の記者達を引き連れて乗り込み、高田知事の奥さんのスキャンダル等をチラつかせ、多選を批判し5選を目指していた高田知事に知事選出馬を断念させたと噂されてたのも、この年の夏のことである。小川氏が誰の差し金で動いたかはその後の小川氏の交友関係を知れば歴然としてくる。現在、小川氏が大村市ボート局の局長に納まっているのは、ただ単に小川氏が大の 競艇ファンというだけの単純な話ではないようである。かりにも長崎新聞社の専務だった人物が競艇場の局長さんである、それだけでも色んな想像が膨らんでくるというもんである。

その年の9月頃、私は長崎県信連会長で吉井農協の組合長でもあり、また牛右衛門の総帥でもあった中村春光会長の江迎町の山の奥にある中村会長の自宅 を度々訪れては朝食をご馳走になったりしていた。今でも思い出すほど美味しかったのはムカゴご飯である。山芋の蔓に付く小さな豆のような実をご飯と炊いた豆ご飯のような炊き込みご飯である。これがなんとも美味しかった。それに春光会長が家の前の畑で飼っていた地鶏の生み立ての卵で食べる卵かけご飯が美味かった。何といっても春光会長の奥さんがつくる味噌汁の味である。上品な味で味その香りが絶品だった。今、思い出せば中村家の朝食が食べたくて、長崎から朝早く起き江迎まで2時間以上も車走らせて通ってたようなもんである。今でも牛右衛門の前を通るたびにあの頃を懐かしく思いだす。そんな9月のある日、春光会長が「中山君、吉井町の竹ずしまで車を運転してくれんか、12時に佐世保の宮島氏と会う約束になってる、君も一緒に鮨でも食べんか」と誘われた。私が春光会長の白いクラウンを運転して吉井町にある竹ずしに着いた時には既に宮島氏の運転手付きの黒色のプレジレントは竹ずしの駐車場に停まっていた。

店に入ると宮島氏の運転手がカウンターに一人座って待っていて、春光会長を宮島氏が待つ個室の部屋にと案内しようとしたので、私が同席を遠慮してカウンターに腰かけようとすると、春光会長が「あんたも一緒に話ば聞いとかんね、と妙に思わせぶりの言い方をして」私にも一緒に個室に入るように即した。宮島氏とは佐世保農協の組合長で元参議院議員でもあった宮島滉氏のことである。元衆議院議員の宮島大典氏の父親といった方が今の人には 分かり易いだろう。

3年後に宮島氏が佐世保農協背任事件で逮捕されるとはこの時には神のみぞ知るである。

「日刊セイケイ斯ク戦ヘリ」プロローグ

「日刊セイケイ斯ク戦ヘリ」のプルローグを思い出すままにつらつらとペンを走らせています。

1017_011997年(平成9年)という年は長崎県の未来を暗示する一年であった。この年の長崎県は「国営諫早湾干拓事業」による諫早湾奥に設けられた潮受け堤防、 いわゆる“ギロチン”の是非に揺れていた。日本中が“ギロチン”によって有明海と遮断された諫早干潟のムツゴロウや生き物達を救おうと「国営諫早湾干拓工 事」の即時中止と潮受け堤防の撤去を叫んでいた。

私はその頃、大村市諏訪町に事務所を構え不動産業の㈱グリーン環境という会社を経営しながら、片手間で趣味も兼ねた「環境タイムス」という怪しげな不定期(気分次第で発行)のタブロイド判機関紙を発行していた。環境タイムスという名前が示す通り、環境問題を主なテーマにしてい たが、気分次第では政治スキャンダル、はたまた談合事件、産廃の不法投棄事件と何でもありの強面新聞だった。配布の仕方も私が行きつけのガソリンスタンドや喫茶店・食堂等の新聞や雑誌を置いてるボックスに新聞と一緒に10部くらい頼んで置いてもらったりする程度の瑣末なものだった。ただ終始一貫していたのは購読料は読者からは一切頂かない、そのかわり遠慮会釈なく書いたもんである。後の日刊セイケイのルーツといえるスタイルの新聞であった。そんな気まぐれな勝手新聞だった。

私が主幹で現在は京都政経調査会を主催している佐藤輝氏が編集長だった。環境タイムスは世論に迎合してムツゴロウを救えと叫び「国営 諫早湾干拓工事」反対の陣営にちゃっかりと便乗していた。当時、民主党の菅直人・鳩山由起夫民主党党首や様々な議員が諫早湾を訪れ、さらには国内外の環境 保護団体や科学者グループが排水門の開放と事業見直しを政府に要求していた。

後にも先にも鳩山由紀夫、菅直人と立場を同じくしたのは2009年の政権交代とこの時の2回きりである。当時の諫早干拓工事反対運動は現在の沖縄県普天間基地辺野古移設反対運動にも似た様相を呈していた。その頃、長崎県では翌年2月の県知事選挙で西岡武夫氏を破り長崎県知事となる金子原二郎氏(当時・衆議院議員)が社長を務める魚介類卸会社・エンマキ商事(松浦市調川)から1400万円(横 領総額十数億円)を横領したとする業務上横領の疑いで、同社の元総務課長(現日本遠洋旋網漁協食品加工部課長)、入江寛容疑者(38歳)=北松吉井町が逮 捕されるという事件が発生していたが政治的力が機能したのか、長崎新聞をはじめ各種マスコミは沈黙した。長崎新聞が辛うじて入江課長の逮捕報道はしたものの、その後は見事なまでに沈黙を通し、この事件が世間に知られることはなかった。

被害額が十数億円と多額なわりにはマスコミの不自然な沈黙に編集長の佐藤氏が訝り、二人で松浦市にあるエンマキ商事に取材に行ったが、さすがに我が環境タイムスにはどこからも圧力も政治的力も声もかからなかったのが悔しかったし懐かしい思い出でもある。