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「日刊セイケイ斯ク戦ヘリ」プロローグその⑳

佐藤輝氏が合流する。
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去った日曜日の5月15日、夏の参院選長崎選挙区に民進党公認で立候補する予定の西岡秀子氏(52歳)が中町に選挙事務所を構えたとテレビ、新聞が報じていたそうだ。

総合選対長こそ高木義明氏に譲っているが、実質的に選挙を切り盛りするのは骨の髄まで西岡党、好漢、中村七男氏だと聞いている。中村七男氏といえば昨年4月の市議選で橋本剛氏に抜かれるまで長崎市議会議員として5700票という最高得票記録保持者でもあった。

18年前の知事選で西岡氏が長崎市内で金子氏に一矢報うことができたのも中村七男氏の献身的な働きがあったればこそとも言われていた。
その西岡武夫氏の長女と金子原二郎氏が18年後、参議院選挙で戦うなどと誰が想像しただろうか。私は西岡竹次郎、西岡武夫、西岡秀子、西岡3代と金子岩三、金子原二郎親子の連綿と貫く長崎の歴史の業、因縁、因果を強く感じている。

Sはすぐに公男氏に連絡を入れ、環境タイムスの特別号を発行することを告げていた。
2月5日が告示だから、それ以降の選挙関連記事は選挙違反になる。私はぎりぎり目いっぱい2月4日付けの特別号を何回かに分けて発行していくことを決め た。インターネットもフェイスブックもLINEもメールもない時代である。環境タイムスのフォームの紙にワープロで打った記事と写真を4面に両面テープで 貼り付けて写植印刷するというバリバリ手作りのチラシかビラのような環境タイムスだった。

2~3日で佐藤氏も合流して、愈々環境タイムス特別号の発行を急ぐことにした。今度の特別号は今までのとは違う。怪文書の類と思われないように発行所在地 を明確にして堂々と戦おうと決めた。仕事の関係で大村市にあった私の不動産屋(グリーン環境)の事務所では不味いと判断し、長崎市に新たな拠点を構えるこ とにした。そして出島に秘密基地みたいな小さい事務所を借りた。
そして今度の特別号から発行所在地と発行人を明らかにするために、主幹を中山洋二、編集長は佐藤輝とハッキリと記載することにした。
私にすれば名前を売り出す絶好のチャンスと考えたのも事実である。関ヶ原の戦いに具足を付けて刀槍持参で西軍に参加した一旗組の浪人のような心境でもあった。
戦況といえば日に日に厳しさは増すばかりだった。

金子陣営は県内全域にいる自民党の県議、市議や各地域支部などを総動員し、徹底した党営選挙を展開していた。それは5年後の平成15年10月に谷川弥一議長が出馬した衆議院選挙でもフルに力を発揮して谷川氏の当選を生んでいる。

長崎市内は辛うじて6分4分とみられていたが、周辺の野母町、三和町、香焼町、高島時津町、多良身町の各首長達も自民党県連に踏み絵を踏まされていた。
辛うじて伊王島町の池下守町長だけが堂々と西岡武夫氏を支援していたのが、救いだった。
長崎市議会議員で西岡派として動いている市議は私が知る限り、東長崎の好漢、中村七男市議と久米直市議の二人だけという寂しさだった。「日刊セイケイ・長崎浪人・中山小六(洋二)」

「日刊セイケイ斯ク戦ヘリ」プロローグその⑲

環境タイムス知事選に乱入!

0516_03 農業行政のエキスパート松岡利勝代議士(元農水大臣・平成19年5月28日歿)との運命の出会いまであと6ケ月、長崎の鬼っ子といわれた日刊セイ ケイ誕生まであと1年10カ月、平成10年1月15日(1998)長崎の地は西岡武夫VS金子原二郎氏による2月5日(2月22日投開票)に告知される長崎県知事選に向かって選挙ムード一色に染まっていた。

告示まで一月を切った中での西岡武夫氏の知事選出馬という圧倒的劣勢の中、私とSはどうしたら西岡氏の劣勢を挽回できる可能性を模索していた。

当然と言えば当然なことだが金子氏の地盤である県北の状況は西岡陣営にとって絶望的だった。西岡2分、金子8分と言っても大袈裟ではなかったくらい金子陣営の勢いは凄かった。

特に佐世保市内は県北地区から初の長崎県知事誕生に執念みたいなものがあった。
候補者は誰でもよかったのだ。県北から初の県知事をと、異常なほどの燃え上がりだった。
西岡氏が強いと思われていた島原半島でも金子氏は着実に支援を広げていた。
五分五分とみられていた県央地区でさえ金子氏優勢が伝えられていた。
県内全域にいる自民党の県議、市議や各地域支部などを総動員し、徹底した党営選挙を展開していた。
長崎市内は辛うじて6分4分とみられていたが、周辺の野母町、三和町、香焼町、高島時津町、多良身町の各首長達も自民党県連に踏み絵を踏まされていた。辛うじて伊王島町の池下守町長だけは堂々と西岡武夫を支援していた。
長崎市議会議員で西岡派として動いている市議は私が知る限り、東長崎の中村七男市議と久米直市議の二人だけという寂しさだった。

0516a 私は東シナ海に沈没したままになっていた金子原二郎氏の出身母体である金子漁業(現在の東洋漁業(金子岩久社長)長崎市)所属の巻き網漁船・第七蛭子丸の19人の遺体を引き上げろ、と主張する特集記事を環境タイムス特別号として発行することにした。
私は京都に住んでいる環境タイムスの編集長(相談役)だった佐藤輝氏(現在は京都政経調査会・主催)に電話し、西岡武夫氏の県知事選出馬の意向を告げ、西 岡公男氏との会談の内容を電話で報告した。そして、西岡武夫氏を応援したいと告げた。佐藤氏の反応は予想通り「今頃出ても勝てへんやろう」。と、あっさり したものだった。

前年の平成9年2月に起きたエンマキ商事横領事件を取材した経験のある佐藤氏は誰よりも金子原二郎氏に対して懐疑的だった。そのエンマキ事件から半年過ぎ た頃に金子氏の県知事選出馬意向を知った時には「こんなもんありえへんがな。長崎はどうなってんねん」。って、呆れていたのも佐藤氏だった。私と佐藤氏の 年齢は一回り離れていたが、反体制というところで意見はいつも一致した。反体制といえば体裁がいいが、ようするに体制の中に入れないでいるハグレ者同士 だったわけである。
Sはすぐに公男氏に連絡を入れ、環境タイムスの特別号を発行することを告げていた。

2月5日が告示だから、それ以降は選挙違反になる。私はぎりぎり目いっぱい2月4日付けの特別号を何回かに分けて発行していくことを決めた。インターネッ トもフェイスブックもLINEもメールもない時代である。環境タイムスのフォームの紙にワープロで打った記事と写真を4面に両面テープで貼り付けて写植印 刷するというバリバリ手作りのチラシかビラのような新聞だった。「日刊セイケイ・中山小六(洋二)」

「日刊セイケイ斯ク戦ヘリ」プロローグその⑱

林幹事長の「きさらぎ会」
0512a私とSは西岡派と思われる主な企業の名前を挙げながらため息ばかり吐いていた。

元々は西岡党といわれた企業の多くが西岡武夫氏の知事選出馬はないと判断し、前年(平成9年)の11月までには金子陣営に後援会名簿を提出していた。土建業界で勝ち馬に乗るか乗らないかは会社の存続に関わる重大な判断だった。

しかも地元ゼネコンは自民党長崎県連幹事長の林義博氏が「きさらぎ会」を立ち上げており、気勢を上げていた。金子知事誕生に向けて自民党本部も自民党長崎県連も猛烈に土建業界を締め付けていた。
当時の林義博幹事長といえば自民党長崎県連最強の幹事長と噂されていた。
林幹事長は元々が佐世保市で珠算塾を経営していたが、どっちかというと親分肌のマル暴に近い雰囲気のあるヤンチャな県議でもあった。その頃、長崎市内をカ シミアのベージュ色のロングコートに白いマフラーという伊達な格好をした林幹事長をよく見かけたもんだが、大柄の身体でゆっくりと歩く姿は貫禄がありヤク ザの親分そのものって感じだった。

平成8年(1996)、衆議院選挙に4区の佐世保市から若手の宮島大典氏(33歳)を引っ張ってきて西岡武夫氏が出馬する長崎1区に落下傘出馬させると いう離れ業を演じ、西岡氏に13000票まで肉薄するという大健闘の選挙を仕切ったのも「きさらぎ会」の林幹事長だった。

林幹事長は珠算塾の先生らしく前回の宮島VS西岡の経験で長崎市内でも金子氏が一定の票を取れると確実に読んでいた。それに橋本龍太郎自民党の人気と勢いで金子県政誕生は間違いないと、この頃は確信していたようである。

きさらぎ会の会長だった林幹事長の側近の筆頭にいたのが大石保県議の甥っ子にあたる㈱三基のM氏だった。Mは林幹事長の信頼も厚く林氏の秘書的存在として 業界では有名だった。金子県政が発足する前から長崎県発注の公共工事は「きさらぎ会」が差配し、㈱三基は林幹事長とM氏の働きが功を奏して順調に受注額を 伸ばしていた。知事選後には長崎市の片山弁護士とK氏が「きさらぎ会」と林幹事長を公選法違反で刑事告発するという騒動まで起きている。

0512bその後、私が林幹事長と稲佐山のルークプラザホテルの花あかりで会食した時に同席したのもやっぱりM氏だったのを思い出している。

全国大手中堅ゼネコンの中央会支部は自民党長崎県連会長の松谷蒼一郎氏が窓口になって資金面でバックアップしていた。その先鋭部隊が大林組、戸田建設、日本国土開発が知事選が終わる前から論功行賞の筆頭と囁かれていた。

しかも自民党本部の力の入れようも半端ではなかった。西岡武夫VS自民党という構図そのものだった。自民党は党本部から大物政治家が連日のように長崎入り していた。長崎の街も人も金子県政誕生という断崖絶壁に向かってまっしぐらに走っていた。「日刊セイケイ・長崎浪人・中山小六(洋二)」

「日刊セイケイ斯ク戦ヘリ」プロローグその⑯

遅すぎた西岡武夫出馬表明

熊本震災で不自由な生活を余儀なくされている皆さまが普通の生活に戻れる日が一日も早く来ることを心から祈念いたしております。
また、困難な被災地 に駆けつけ、救出作業や復旧工事にあたる自衛官の皆さんには心から「ありがとう」と御礼申し上げます。さらに米軍によるオスプレイでの輸送支援には日本国 民の一人として感謝申し上げます。

また、米軍によるオスプレイでの輸送支援を政治的な意図をもって批判を繰り返す、共産党や沖縄左翼の売国奴、照屋寛徳には怒りが収まりません。沖縄県の恥です。日本の政治家という前に日本人を辞めてください。

(オスプレイ熊本派遣「災害の政治利用」社民・照屋氏が批判)
http://www.okinawatimes.co.jp/article.php?id=166049

回顧録「日刊セイケイ斯く戦ヘリ」プロローグを思いだすままに記憶と記録に基ずいてつらつらと書いています。

0426_08西岡公男氏から武夫氏が知事選出馬への意思を持つに至った経緯を聞いた時の私の正直な感想は「遅すぎた」。だった。
西岡武夫氏が長崎県知事選に出馬の意向を表明した日から、知事選が告示される2月5日まで一月を切っていた。投開票される2月22日まででも40日余りしかなかったからだ。

ハッキリ言って、無謀だという西岡党の人は多かった。
事実、西岡氏の出馬は無い、と判断し金子陣営の選対幹部に座っている西岡派の人は多かった。
中村春光会長もその一人だった。それは吉井農協の組合長として、また、牛右衛門グループの総帥として、経済人としての当然の決断だった。
私は9月の宮島会談後に春光会長が言った「「中山君、知事選に西岡さんが出る可能性はまだある。今月か来月頃、高田知事も松田先生と一緒に西岡さんの知 事選出馬の要請に東京まで行くそうだ。西岡出馬の可能性はまだまだある。しかし、10月末までに出馬表明せんばだめばい。それまでは迂闊に動かんがよ か」」。と言った言葉を思い出していた。
また、前年度には西岡武夫氏に知事選出馬を要請した高田勇知事も金子氏支持を表明していた。

公男氏は「父が昭和26年(1951)に知事選に出馬表明した時も告示まで一月もなかった」。事実を挙げて、勝機ありを強調したが、昭和26年頃の政治状況と今では余りにも違いすぎていた。

戦前に海軍政務次官を務めていた西岡竹次郎氏は、戦後昭和21年(1946)日本が太平洋戦争に降伏後、連合国軍最高司令官総司令部の指令により、公職に就くことを禁止されていた。
竹次郎氏は昭和25年(1950)に公職追放を解除されると自由党長崎支部長と長崎民友新聞社長に復帰し、翌年、昭和26年(1951)4月30日、自由党推薦で長崎県知事選挙に出馬してる。
竹次郎氏は長崎県知事選挙史上最高となる投票率85.61%の激戦を戦い、現職の杉山宗次郎(社会党・民主党推薦)を39万3,378票対30万6,007票で破って知事に就任していた。

新人で無所属から出馬を表明していた金子原二郎氏は五島町の中村倉庫(現・コナミスポーツクラブ長崎)に選挙事務所を構え、大通りに面した駐車場は車の 出入りも激しく、見るからに活気に溢れていた。また、この頃の自民党長崎県連は政調会長に谷川弥一氏、幹事長が林義博氏、議長が村山一正と自民党県連の黄 金期を迎えていた。谷川政調会長や林幹事長は県内の土建業者は勿論、全国大小ゼネコンに対しても長崎県発注の公共工事を餌に締め付けを強めていた。

平成15年(2003)1月15日、自民党長崎県連元幹事長浅田五郎氏(当時65歳)が逮捕された容疑こそ県工事を受注していたゼネコンに知事選目的で献金を要請していたなどとした公選法違反(特定人の寄付の勧誘、要求の禁止)そのものだった。
それは、この平成10年(1998)2月の知事選で公然化し、自民党長崎県連方式と呼ばれ悪しき慣例となっていった。

「日刊セイケイ斯ク戦ヘリ」プロローグその⑮

回顧録「日刊セイケイ斯く戦ヘリ」第11大栄丸の船体引き揚げについて

0504_03平成21年(2009)当時、私(中山洋二)をどんな容疑でもいいから逮捕しろ、と、とんでもない天の声が出ていることは東京から来る情報で知っていた。やれるものな らやってみろ、というのが当時の私の心境だった。それで平成22年(2010)まさかの「怖かった事件」での逮捕である。権力って怖いですね、何でもでき る。おかげで合計で58日間の拘禁生活を経験させて頂いた。

保釈後、私を気の毒に思った東京の法曹界に近い関係者から後で聞かされた話だが、「中山さん、金子さんと近い岩橋義明という特捜の検事があんたを前々か ら狙っていたんだよ。前に会った時に金子さんや長崎県警には気をつけなさいと、って、言ってたでしょう。あんなことぐらいでふつうは逮捕なんてないよ、今 回はあんたの完全な油断だよ。」って諭された、と、同時に金力や権力って凄いなって改めて感心したもんである。岩橋というのは長崎県佐世保市出身の検事で、特捜の公判部長まで務めた次期警視庁総監候補とまで噂されていた特捜の岩橋義明元公判部長のことである。その岩橋公判部長が長崎地検の部下であった四窯検事に「中山を何でもいいから逮捕しろ」と厳命していたそうである。

そして私は私的で姑息な国策捜査によって1年数ヶ月後の平成22年12月1日、「怖かった」という変てこな容疑で長崎県警に逮捕されてしまう。

そして殴ったわけでも蹴ったわけでも茶碗を投げたわけでもないのに「暴力行為」という理解し難い容疑で長崎地検に送検されてしまうのである。
さすがに天罰が下ったのか岩橋氏は翌々年の平成24年9月28日(2012)酒に酔っ払って東急田園都市線の電車の運行を妨害した業務妨害の疑いで神奈 川県警に事情聴取されている。特捜の公判部長という立場を使い上手く隠蔽に成功していたが、一月が過ぎた10月4日、内部告発により事件が報道され岩橋氏 (当時・58歳)は失脚している。そして長崎県出身者初といわれた警視庁総監の夢は潰えたのである。
(佐世保市出身の最高検公判部長の岩橋義明氏(58)が妨害!)
http://n-seikei.jp/2012/10/58.html

岩橋氏については他にも面白いブログなどで色々と書かれているので参考のために下記にリンクしておく。
最高検察庁 岩橋義明検事を列車運行妨害の疑いで事情聴取
https://www.youtube.com/watch?v=hzSB8YD0uOs

岩橋義明の正体(横板に雨垂れ)
http://yokoita.blog58.fc2.com/blog-entry-226.html

第11大栄丸引き揚げ、届いた遺族の願い
http://n-seikei.jp/2009/08/11-13.html

第11大栄丸/生月島を訪れて
http://n-seikei.jp/2009/10/11-15.html

第11大栄丸の船体引き揚げのニュースは、新聞やテレビのニュースで報道された。多くのJC-NETの閲覧者の方もご存知だと思う。
遺族の方々の懸命な叫びと、18万名にも及ぶ善意の署名と石破農林水産大臣(当時)のご英断により、悲痛な祈りであった船体引き揚げが実現した。9月22日から本格的な引上げ作業が開始され、引き揚げられた船体から既に8名の方が家に帰った。

なお、JC-NETの引揚問題記事につき、閲覧者の皆様方のご協力は、遺族の方々の悲願達成に大きな力となりました。ありがとうございました。
私も平成21年(2009)9月30日、雨の中、生月島へ向かった。第11大栄丸の事故には自分なりに報道してきたことからも是非とも引き上げる瞬間を見 ておきたかった。生月島では、亡くなられた方々のご遺族の方々とお話もさせていただき、ご仏壇に手も合わさせていただいた。

あるご遺族の方の家は、第11大栄丸の基地であった館浦漁港を見下ろす大きな観音像に抱かれたような場所にあった。そこでは「自分のところは帰ってきてく れてよかったが、まだ残っている人が・・・。残っている人がおられるのでそれが心配で、心配で・・・」と何回もお話しされた。
遺族会で熱心に署名活動をされていた方の家も伺わせてもらった。ご遺族は「まだ家には帰ってきとらん。どうなるか分からん。帰ってきて欲しいが・・・・」と言葉少なであった。
第11大栄丸は、深田サルベージにより22日から引き揚げ作業が行われ、大型クレーン船により4月14日の沈没以来その姿を見せた。その後船は台船に引き 揚げられ捜索が開始された。沖合いから平戸の波穏やかな川内湾内(有名なホテル蘭風があるところ)に曳航されての作業であった。その結果29日までに11 名の遺体を収容。しかし残る1名は不明のまま、30日その捜索は打ち切られた。

これまでに9名の遺体が確認されたものの、2名は確認できずDNA鑑定に回されている。家にまだ戻すことができない3名の遺族の方々の心労ははかるべくもなく、しかも1名の方の遺体は永遠に自宅に帰すことができない状況である。
以前JC-NETで掲載した兄を亡くされた妹さんのスピーチ文をレクイエムとして掲載しているので回顧録でも紹介しときます。
「もう会えないけれど、ずっと見守って」
私は今まで命のことについて考えたことがありませんでした。この14年間を何も考えずに生きてきたので、友達や周りの人に傷つけることをしてきたと思います。けれども、そんな私が最近、命のことについて考えるようになりました。

それは、4月14日のできごとでした。その日の朝、私は熱が少しあり、学校を休もうかと考えていました。すると兄が「このくらい大丈夫さ。学校行けるっ てー」と、いつもと違う優しさで私に言うのです。兄は私の6つ上。年はそんなに離れていませんが、兄ということもあり私には優しくもあり怖い兄でもありま した。そんな兄との会話はこれで終わりました。

その日は、兄の乗る大栄丸漁船団の出船の日でした。風の強い日でしたが、変更はなく出航するようでした。私も兄の言葉もあり、普段通りに学校へ行きまし た。けれど放課後になり帰ろうとすると、突然担任の先生が車で送ってくださるというのです。そして先生が思いきったように言われた言葉は「兄ちゃんの乗っ とる船が、事故にあったって」というひと言でした。不安に思いながら家へ入ると親せきの人がたくさん来ていて、私にも大変なことが起こったとわかりまし た。

「なんかあったと?」という私の質問に答えたおばさんの言葉は、「兄ちゃんの船の沈没したらしか」というものでした。それを聞いた瞬間、私は信じられない気持ちでいっぱいでした。

「ヒロ兄(にい)はどこにおると? 船の中におると?」と私が尋ねると、おばさんは「まだ詳しかことはわからんけど、船の中におるごたる」というのです。

私はその言葉を聞いたとたん、涙がどんどんこぼれ落ち、話すこともできませんでした。

そして「なんで? なんでヒロ兄の乗った船が?」という思いでいっぱいでした。けれども一方で、ヒロ兄が死ぬはずはない、きっとどこかで助かっている、という思いも強くありました。

その日から、テレビでも新聞でも事故のことばかり報じられていました。そのどれを見ても兄の姿が浮かんできて涙が出るのです。兄の船が沈んだ辺りまで行ったこともありました。

私はそこで兄に「早く帰っておいで」と心の中で何度も呼び掛けました。

事故から2ヶ月が過ぎた今、私はいまだに事故が起きたことを信じられずにいます。兄はまだ20歳。つい何日か前まで一緒にご飯を食べたりテレビを見たり して過ごしていたのに、いなくなったなんて信じられません。ただいつも通り仕事に行っているだけで、あと少ししたら帰ってくるとしか思えないのです。

でも日がたつにつれ、これが現実だと思うようになってきました。そして、兄に言いたいことが次々にわいてくるのです。

「ヒロ兄、桃子はこれからいろんなことにあきらめないで頑張るからね。もう会えないけれど、これから先もずっと桃子の兄ちゃんとして見守っていてください。妹として何もできなくて、そして苦しいときに助けてあげられんでごめんね」

こんなことを考えていると、命がなくなるというのはこんなことなのだと実感します。それは大切な人に、どんなに強く願っても二度と会えなくなってしまう ということです。このことがあってから私は、あらためて身近にいる家族や友達のことを大切にしなくてはいけないと思うようになりました。「命」とはたった 漢字一文字だけど、とても深い意味があることに、兄が気づかせてくれたのだと思います。

今の私にできること。それは、1日1日が自分にとって充実した日々になるよう、今を大事にすることだと思います。そして、1つしかない命を大事に、兄の分まで精いっぱい生きていきたいです。

以上、海底に眠るヒロ兄(にい)こと平松大嗣さん(20)への思いを語った妹の桃子さん(生月中3年)のスピーチ文。

「日刊セイケイ斯ク戦ヘリ」プロローグその⑭

熊本震災でお亡くなりになりました方には心よりお悔やみ申し上げます。また、被災者の皆さまには心からお見舞い申し上げます。また、困難な被災地 に駆けつけ、救出作業や復旧工事にあたる自衛官の皆さんには心から「ありがとう」と御礼申し上げます。さらに米軍によるオスプレイでの輸送支援には日本国 民の一人として感謝申し上げます。

そして米軍によるオスプレイでの輸送支援を政治的な意図をもって批判を繰り返す、共産党や沖縄左翼の売国奴、照屋寛徳には怒りが収まりません。沖縄県の恥です。日本の政治家という前に日本人を辞めてください。

(オスプレイ熊本派遣「災害の政治利用」社民・照屋氏が批判)
http://www.okinawatimes.co.jp/article.php?id=166049

0502_02西岡公男さんが言った蛭子丸とは平成5年(1993)2月21日、五島列島沖の東シナ海で操業中に転覆した金子漁業(現在の東洋漁業(金子岩久社長)長崎市)所属の巻き網漁船、第七蛭子丸のことである。

事故原因は漁具の積み過ぎによる復元力の低下と、漁網の固定方法が不適切だったことから、悪天候を受けて漁網が右舷側に滑り、傾斜が戻らなくなって転覆したみられていた。

基本的には韓国のセウォル号と同じ原理だったわけだ。
乗組員20人のうち19人が行方不明になり、長崎県内を揺るがした悲惨な大事故だった。
会社側は、海底で漁網が船体にからみついているために引き揚げは技術的に困難であるという結論を出していた。

五島沖の東シナ海で沈没した第七蛭子丸は、19人の遺体を抱いたまま120mの海底で今も放置されたままです。「天下御免の素浪人(同じ会社が二度目の海難事故)より参照」

当時、私は海底に眠る19人の遺体をサルベージ船を使ってでも一刻も早く引き上げて家族が待つ生月島に帰してやるべきだと環境タイムスで主張していた。そんな理由もあって金子前知事や金子一族、その仲間達からは蛇蝎のごとく嫌われていた。と、自負している。

第七蛭子丸の事故から15年が経った平成21年(2009)4月14日、生月町舘浦漁港を出港した第11大栄丸が平戸島沖の東シナ海で低気圧の大しけ中、転覆沈没するという事故が再び起きた。
水深100メートルに沈む大栄丸の画像がテレビに映し出される。私は15年前の第七蛭子丸を思い出した。

当初、船主の大栄水産(同市生月町)は引き揚げについてサルベージ会社が調査を進めたが、技術的な問題や多額の経費の負担が困難などの理由から同年5月 1日に引き上げを早々と断念。翌々日の5月3日には第11大栄丸事故現地合同対策本部(大栄水産、舘浦漁協、長崎県、平戸市)も解散するという水際だった 手際よさといえた。

0502_01私の予感は的中した。15年前と同じ第七蛭子丸の悲劇が生月島で繰り返されようとしていた。
私は血が逆流しそうなほどの嫌悪感と強い怒りを覚えた。しかも今の長崎県知事こそ蛭子丸を引き上げることをしなかった金子水産の親族、金子原二郎氏である。

あとで詳細に書いていくが結論から言って、第11大栄丸は世論(18万人の署名)と遺族の悲痛な祈りが届き、事故から5カ月後の平成21年(2009)9月22日引き揚げ作業が開始された。政権交代の22日後のことである。

誤解がないように記しておくが引き上げの英断を下したのは自民党麻生政権時の石破農林水産大臣だった。

私が平成10年(1998)に行われた知事選で既に勝敗は決した。と言われながらも西岡武夫氏を応援することに決めたのは、私の父や母が西岡党だったという単純な理由からだけではない。長崎県で第七蛭子丸の悲劇を二度と起こしてはならないと心の底から思ったからである。

私は西岡公男氏の「兄が知事になったら必ず第七蛭子丸を引き上げる」。という言葉を信じ、西岡武夫氏の応援を約束した。

その後、環境タイムスはインターネット長崎奉行・日刊セイケイに生まれ変わり、さらにその系譜はJCーNETへと繋がれていく。「日刊セイケイ・長崎浪人・中山小六(洋二)」

「日刊セイケイ斯ク戦ヘリ」プロローグその⑬

回顧録「日刊セイケイ斯く戦ヘリ」プロローグ・西岡公男さんと会う。⑬

熊本震災でお亡くなりになりました方には心よりお悔やみ申し上げます。また、被災者の皆さまには心からお見舞い申し上げます。

西岡公男さんと会う

0428_01平成10年(1998年)分正月気分がまだ残っている1月10日、私の仕事を手伝っていたSからケイタイに連絡が入り、「西岡先生が2月の知事選に出馬の 意向を固めたらしい。今からグランドホテルで公男さんと会うので、よかったら中山さんも同席して話を聞いてもらえんだろうか」。という内容の電話だった。

Sがいう公男さんというのは西岡武夫氏の実弟であり、元県議で副議長まで経験していた西岡公男氏のことである。当時、公男氏は身体の健康状態が思わしくなく、平成7年(1995年)4月の県議選への出馬を断念、県議を辞職して療養中だと聞いていた。

また、Sがいうグランドホテルとは長崎グランドホテルのことで、長崎市内の繁華街の少し外れに位置していたが長崎県庁に近いという利便性から、政治家や経済界関係者は勿論、怪しげな連中もよく利用していた。長崎っ子にとって最も親しまれたホテルであった。

Sが指定する時間に長崎グランドホテルに着くと一階にあるラウンジの右奥の席にSと西岡公男さんが私を待って座っていた。私は西岡公男さんとは初対面で あり、私が初めて会った最初の西岡家の人が西岡公男さんだったわけである。公男さんは病みあがりのせいか顔色が異常に青白く、とても痩せていたように思 う。私は公男さんを初めて見たとき、公男という名前からか平安時代の御公家さんを連想したのを記憶している。
公男さんは話をしていても気のせいか御公家さんを感じさせるものがあった。それは育ちと環境からくるものだったかもしれない。

0428_05-thumb-autox236-8214Sの説明によるとSの兄と公男さんは中学か高校の同級生で、公男さんが頻繁にSの家にも遊びに来ていてSが幼い頃からの付き合いだと言っていた。元々S家は県議選は西岡公男、国政選挙は西岡武夫を応援していたとも説明していた。まさにバリバリの西岡党だったのである。

私は㈱グリーン環境の代表取締役の名刺といっしょに環境タイムス主幹の名刺を公男さんに渡した。公男さんが私に渡した名刺には社会福祉法人・平成会・理事 という肩書きが記されていた。社会福祉法人・平成会(長崎市横尾町)というのは久保勘一長崎県前知事の長男・久保安之氏が理事長を務める社会福祉施設であ る。安之氏の妹で久保勘一前知事の4女の佳子さんが公男さんの妻であり、佳子さんの姉がその後、五島市市長になる中尾郁子さんという、これまた恵まれた環 境にある華麗なる一族であった。

公男氏は兄、武夫氏が知事選出馬への意思を持つに至った経緯を説明し、西岡武夫出馬表明の遅さを詫びた。
それでも兄、武夫が出馬すると決めた以上、弟である私は死ぬ覚悟で応援したい、よかったら中山さんも応援して頂けないだろうか。と、必死になって訴えたの である。そして公男氏は私が発行していた環境タイムスをジャケットの内ポケットかた取り出し、兄が知事になったら蛭子丸は必ず引き上げてみせる。と、言っ たのである。「日刊セイケイ・長崎浪人・中山小六(洋二)」

「日刊セイケイ斯ク戦ヘリ」プロローグその⑫

回顧録「日刊セイケイ斯ク戦ヘリ」プロローグ・新進党の解党。⑫

2016年、4月15日以降に発生した、熊本県を震源とする地震により亡くなられた方々に謹んでお悔やみ申し上げますとともに、被災された多くの 皆さまに心よりお見舞い申し上げます。また、今尚、避難生活を余儀なくされている6万人を超える人達が1日も早く通常の生活に戻れるよう心より祈念いたし ております。

回顧録「日刊セイケイ斯ク戦ヘリ」の日刊セイケイ誕生までの長~いプロローグを思い出すまま勝手に書いています。読んで頂ければ幸いです。⑫

西岡武夫氏が所属していた当時(1997・平成9年)の新進党は、ウィキペディアで検索すると現在の共産党が主導する民共が共闘する現在の民進党、共産党・社民党、生活と山本太郎となかまたち、の国民連合政権構想にどこか似ていて興味深いものがある。

この時の新進党の幹事長こそ西岡武夫氏であった。西岡氏にしてみれば党が存亡の危機に瀕している時に幹事長の自分が、己の都合で党を見捨てて長崎県知事選に出馬するなど潔しとしない、有り得ない選択だった。だが、結局、新進党は同年12月27日、年末の慌ただしい中で解党してしまった。

(ウィキペディア)で当時の新進党を振り返ってみると、つい最近のような気もするが、あれから20年近い歳月が流れている。今や自民党の実力者となった二 階俊博氏、次期総理の筆頭といわれた石破茂氏も新進党からの出戻りであり、まだまだ枯れていない小沢一郎氏、亀井静香氏と懐かしい顔ぶれが活躍していた時 代だった。

(ウィキペディア)で少し当時を思い出してみてください。今の政治状況と比べてみると案外参考になります。

新進党(しんしんとう)は、1994年末から1997年末にかけて活動した日本の政党。55年体制成立以後、自由民主党以外で初めて日本社会党を上回る数の国会議員を擁する政党であった。

結成までの経緯
0426_071994年(平成6年)6月の自由民主党・日本社会党・新党さきがけによる村山富市内閣の発足で下野した非自民・非共産勢力は、次期総選挙で施行される小 選挙区比例代表並立制への対応に迫られていた。小選挙区で自民党に対抗するためには野党各党が合流して各選挙区で候補者を1名に絞らなければならず、新・ 新党を結成する流れが一気に傾き、新生党・公明党の一部・民社党・日本新党・自由改革連合などが結集し、同年12月10日、結党された。理念は「自由、公 正、友愛、共生」。

党結成に関して、新生党の代表幹事であった小沢一郎(当時:新党準備委員会委員長)は「保守党」と名付けることを希望したが、周囲の反発により断念した。 初代党首選挙は、自由改革連合代表の海部俊樹元首相、新生党党首の羽田孜元首相、民社党委員長の米沢隆の3名で争われ、海部が勝利した。
結成時の所属国会議員数は214人(衆議院176人、参議院38人)である。結党時の国会議員数が200人を超える政党が結成されたのは、1955年(昭和30年)結成の自民党以来39年ぶりであった。

公式の英語党名は、当初「New Progressive Party(新進歩党)」とする案も出されたが、異論があり「New Frontier Party (新開拓地党)」となった。公式の略称は新進、NFPとされた。日本の英字紙であるジャパン・タイムズは公式英称をあまり用いず、ローマ字名称の 「Shinshinto」を多く用いた。
1995年(平成7年)7月の第17回参議院選挙において改選議席の19議席から40議席へと議席を倍増させ、比例区の得票では自民党の獲得票を上回る躍進を見せた。

相次ぐ党内対立
1995年(平成7年)12月の海部党首の任期満了に伴い行われた党首選において、羽田孜と小沢一郎が激突し、小沢が党首に就任した。海部と争った前回の 1994年(平成6年)12月党首選に続き敗退した羽田の支持グループはこれ以降、党運営を巡り小沢との対立を深めていくことになる。
1996年(平成8年)10月の第41回衆議院総選挙では政権交代を目指し、野党第一党としては38年ぶりに衆議院議員定数の過半数の候補者を擁立した。 消費税率を20世紀中は据え置くことや、減税およびそれに伴う経済の活性化による財政再建を公約の目玉にするも、解散前議席に届かなかった。
主な敗因として、
自民党・新進党・民主党の候補者による三つ巴の戦いで反自民の票が割れた結果、自民党が勝利した小選挙区が多かったこと(重複立候補を原則行わなかったため、多くの小選挙区でわずか1万票前後の差で野党候補の落選者が出た。)
自民党、特に亀井静香と白川勝彦による新進党の有力支援組織である創価学会に対する反創価学会キャンペーンの存在。

1105_01-thumb-165xauto-3344公明や支持母体の創価学会が一部選挙区(東京5区や神奈川11区など)で新進党候補者(反創価系の新進党候補者)へ投票せず独自投票を行い、事実上の分裂選挙になったこと。
増税を推進する自民党や民主党に所属していながら候補者自身は増税反対と主張するなど、政党の公約と個人の公約にねじれがあり、有権者を混乱させたこと (消費税をなくす会の調べによると、自民党から当選した239人のうち108人、民主党から当選した52人のうち32人が、消費税引き上げ問題に関して反 対もしくは見直しと公約したという)

解党、分裂へ
総選挙後、羽田・細川護煕らの離党や自民党による引き抜き工作により求心力を失いつつあった小沢執行部は、自民党との大連立構想、いわゆる保保連合構想を 模索し、自民党内で自社さ派の加藤紘一・野中広務に対抗する保保派の梶山静六・亀井静香との関係強化を図った。しかしこれに対し、自民党に取り込まれると 党内から反対論が吹き出し、小沢の求心力をさらに失わせる結果となった。
1997年(平成9年)11月、旧公明党のうち新進党に合流していない参議院議員・地方議員を中心とする政党・公明が新進党への合流を取りやめ、1998年(平成10年)の第18回参議院選挙に独自で臨むことを決定した。
同年12月、小沢党首の任期満了に伴い党首選が行われ、小沢党首と鹿野道彦元農水相の一騎打ちとなり、小沢が再選した。小沢は純化路線に進むことを決断 し、同月27日に両院議員総会を開いて新進党の分党と新党の結成を宣言した。これによって新進党は消滅し、自由党・改革クラブ・新党平和・新党友愛・黎明 クラブ・国民の声の6党に分裂した。

「日刊セイケイ斯ク戦ヘリ」プロローグその⑪

2016年、4月15日以降に発生した、熊本県を震源とする地震により亡くなられた方々に謹んでお悔やみ申し上げますとともに、被災された多くの 皆さまに心よりお見舞い申し上げます。また、今尚、避難生活を余儀なくされている6万人を超える人達が1日も早く通常の生活に戻れるよう心から祈念いたし ております。

回顧録「日刊セイケイ斯ク戦ヘリ」プロローグ・「おじや」。⑪
0425_03[1]どんな手を使ってでも子息、宮島大典氏を国会議員にするんだ、という宮島組合長の決意には並々ならぬものがあった。
実際、この時に宮島組合長が大典氏を金 子氏の後任として長崎4区の公認候補に決定するまでに使った金は3000万とも5000万ともいわれていた。翌年、平成10年2月の補選で当選するまでに 宮島組合長が子息・大典氏のために使った金額は軽くみても1億円は下らないとも噂されていた。

吉井町の竹ずしの駐車場で宮島組合長が乗る黒の日産プレジレントを見送ってから、私達はひとまず、春光会長が組合長を務める吉井町にある吉井農業協銅組合に立ち 寄った。それから私が春光会長の白いクラウンを運転して江迎町の山の奥にある中村家に向かった。

春光会長は私が運転する助手席に座り、牛右衛門の話やら、中村家の先祖が岡山県から来た頃の話やら、色々と楽しい話、面白い話しをしてくれた。博識で苦労人でもある春光会長の話は含蓄があり聞いてるだけで勉強になった。だが、宮島大典氏の話題には一切触れなかった。それが宮島組合長への春光会長の今日の返事だったんだろうと私は勝手に思ったもんである。

0425_04[1]車が江迎町の赤坂付近まで来た時だった、春光会長が「中山君、庄屋で「おじや」でも食べていかんね、ここの「おじや」は美味かぞ」。っと言ってくれた。

ここの庄屋こそ、現在、九州全土に広がる庄屋チェーン、牛右衛門グループ発祥の伝説の店である。春光会長自らがあちこちから集めてきたという古民具や調度品が店の雰囲気に自然に調和された何とも味わい深い店である。

春光会長は鯉の彫り物の自在鈎が釣るしてある囲炉裏の席に座ると「おじや」を注文した。この「おじや」の味がまた何とも美味かったのを今でも忘れられない。

春光会長を 自宅まで送り、挨拶をして帰りぎわに春光会長は「中山君、知事選に西岡さんが出る可能性はまだある。今月か来月頃、高田知事も松田先生と一緒に西岡さんの知事選出馬の要請に東京まで行って来るそうだ。西岡出馬の可能性はまだまだある。しかし、10月末までに出馬表明せんばだめばい。それまでは迂闊に動かんがよか」。と、春光会長が真剣な顔つきで言ったことをを思いだす。

だが西岡氏は当時、新進党の幹事長をしており、党のゴタゴタが続いていた。結局、西岡氏が10月までに知事選出馬の表明をすることはなかった。西岡氏が知事選出馬を表明するのは年が明けた平成10年1月中旬頃になってからである。

「日刊セイケイ斯ク戦ヘリ」プロローグその⑩

2016年、4月15日以降に発生した、熊本県を震源とする地震により亡くなられた方々に謹んでお悔やみ申し上げますとともに、被災された多くの 皆さまに心よりお見舞い申し上げます。また、某党や胡散臭い団体・個人の募金や義援金の呼びかけには十分に気を付けてください。

回顧録「日刊セイケイ斯ク戦ヘリ」県連では決めん、党本部で決める。⑩

林義博氏

林義博氏

何が何でも金子原二郎氏の知事選出馬による長崎第4区の補選に子息、宮島大典氏を擁立したい宮島組合長は春光会長に大典応援と金子氏応援とを執拗に迫っ た。そして宮島会長は何の脈略もなく「県信連が西日本不動産(長崎市・木下社長)に貸し付けている数十億円が焦げ付いている」。と、選挙とは全く関係ない 話題を唐突に持ち出してきた。
私は最初、何のことかさっぱり意味が分からなかったが、春光会長の苦々しいと言わんばかりの表情を見て、だいたいの察しはついた。この頃はバブルが弾けて長崎でもあちらこちらで不良債権が発生していたからである。
それに、佐世保市江上町のハウステンボスに隣接する土地に農業体験ができる滞在型リゾート開発の計画があり、長崎県信連が土地購入費として数十億円を貸し付けていた話は環境タイムスの主幹として取材したことがあったから、そのくらいは知っていた。

ただ、何でこの場で、しかもこのような形で宮島組合長がこんな話を切り出したのか、意図が分からなかったのだ。すると春光会長はすました顔で「そりゃあ 佐世保農協も色んな焦げ付きがあろう。どこも似たような焦げ付きはあるやろう」。と、笑顔も見せずに言い返した。

春光会長の反撃に少し狼狽した宮島組合長 は「春光さん、我々は同じ穴の狢みたいなもんでしょ、これからも助けあっていきまっしょ」。と、作り笑いをして、春光会長の顔を覗き込んだ。宮島組合長は こう言いたかったんだと思う。「春光さん、大典を国会議員にしとかないと、宮島家は大変なことになる、そうなれば私が長崎県信連から借り16億円の金も払えなくなるよ、そうなると最終的には貴方(春光会長)にまで迷惑を掛ける事になるよ。そうならないためにも大典ば何としてんでん国家議員にしとかないとい けんのさ」、と。

竹ずしすると春光会長はこの話はこれで終わりにしようと思ったんだろうと思う。「補選の候補は県連の選考委員会が決めること、ここで我々が何ば言うてん、いっしょたいね、大典さんで決まればそれもよし、あとは県連がどがんすっか、決めるだけたい」。と、言って自ら頷いていた。

0421_03 すると、また宮島組合長の口からとんでもない話が飛び出したのだ。「県連では決めきれん、最後は党本部で決めるっさ」。私はその時の宮島組合長の得意げな顔 が今でも忘れられない。こうして19年前のことを思い出しながら回顧録を書いている今でも、昨日の事のように鮮明に思い出す。あの時は宮島組合長のことを腹立たしく思ったもんだが、私も二人の息子を持つ親ということでは同じである。あの時の宮島氏の子を思う親の気持ちが分からないではない。ただ、あんまり無理をすればロクなことにならない、と、いうことを学んだことは間違いない。

この日の会談から約2年数カ月後、宮島組合長が長崎県信連から融資を受けていた16億円の焦げ付きが発覚し、事件にまで発展したことを記憶している読者もいるだろう。